悪魔の角。
嗤う口の形。
欠けたもの。
闇に浮かぶ、小さな光。
----下弦の月(かげんのつき)----
深夜。
真っ黒く塗りつぶされた世界にぽつりと爪の先のような
細い細い三日月。
少年は、病院の白いベッドの上で半身を起こして座っていた。
ネオAブロック隊長。
---いや、元、だ。
俺はボーボボさんの敵になり、善滅丸に操られて
彼に挑み………そして負け、赦され、ここにいる。
自分の情けなさにヘドが出る。
自嘲気味に笑うと、まだ引き攣る喉に声が上ずったような
音を立てた。
弱々しく咽るヘッポコ丸の顔には、痩せさらばえた犬のような
惨めな影がべっとりと貼り付いている。
ひとしきり咽た後、彼は再び漆黒の闇を見上げた。
紅い瞳が細い細い三日月を映す。
善滅丸に------------------操られて。
月が、歪んだような気がした。
操られて?
軽い吐き気がする。まだ体調が回復していないせいかもしれない。
おれのせいにするなよ。
のぞんだのは、おまえじゃないか。
「俺---おれが?」
頭の芯がはっきりしない。
月が歪んだ。
嗤うように。
のぞんだろ?
おれは
おまえは
何を言った?
「一年前は、足元すら見えなかったお前に」
ボーボボに。
あの男に。
弱い光にあてられて背中に伸びる昏い昏い影が質量を持って
頭から覆いかぶさってくるような気がした。
冷たい感覚に、体が動かなくなる。
月が嗤う。
月が囁く。
おれはお前を識(し)っているぞ。
おれがお前の頭に宿った日から、
おれはずっとお前の中にいる。
月は、角のかたちをしていた。
切り落とされた、あの角の-------
いたい。
あたまがいたい。
めのおくがいたい。
よせ。
教えてやるよ。
いらない。おまえのこえなんかききたくない。
あんなに望んでいたじゃないか。
よせ。
-------だろ?
いやだ。
ちがう。
----ったんだろ?
ちがうおれは
いもうとのためにしかたなく
ニタリ、と上がる口角。悪魔の顎。
「殺したかったんだろ?
かんたんだよなあ、
てっとりばやいよなあ。
焦れたお前はおれをよんだ。
…成り代わるために!
…手に入れるために!!
お前の望みは殺すこと」
お前自身を
…そしてボーボボを!
遥かな草原。
緩やかな日差し。
いつものあいつらが楽しそうに遊んでいる。
そしていつもの、自分を呼ぶ声。
外で食べる昼ごはん。
きれいにならぶサンドイッチと、
思い思いに卓を囲むカラフルな仲間。
笑う愛しい少女に、それとなく聞く。
「あれ?ボーボボさんは?」
何言ってるの、そこにいるじゃない。
柔らかい笑顔で指をさす少女に
少年は安堵する。
そこに-------
俺の胸?
俺のシャツの胸のところには赤い塊がある。
赤い-----塊。
俺のシャツに太い紐で乱暴に縫い付けられたそれは、赤い赤い赤い赤い
あの男の心臓。
「-------!!!」
悲鳴を上げかけたヘッポコ丸は、逆流するものに喉を塞がれ、
体をくの字に折った。
指の間からだらだらと流れる吐瀉物。
もう止まらない。
涙が溢れる。喉が焼ける。
いたい。
あたまがいたい。
割れるようだ。
ガンガンと反響するのは哄笑か、それとも自分を求める妹の嘆きか。
幻覚だ。
幻聴だ。
膨らむ恐怖に耳を塞ぎ、目をつぶる。
こぼれた涙が頬を伝った。
なのに、まぶたの裏に残る爪月が愛しい少女の唇をかたどり、
言葉を紡いで一番聴きたくない声でうたう。
あぁぁぁまえんぼぅぅぅぅの、
かぁわぃそうぅうなへっくぅぅん。
わんわんと幾重にも反響する声が自分を責める。
知っていた。
わかりたくなくて、心の奥底にしまって見なかった。
最初は、単純な憧れだった。
強くなりたい。この人についていって、この人の強さを知って、
俺もこの人みたいになりたい。
そして一緒に旅をして、この人の強さをもっともっと実感するようになって。
同時に、だんだん遠くなっていく距離。
実感するたびにどんどん離れていく距離。
気がつけば、走っても走っても追いつかない感覚。
そして小さな、情けない俺はだんだん焦っていく。
求める強さの意味。強さってなんだろう。
そんな初心なんか綺麗に忘れて。
歪んでいく、俺の思い。
きっかけは、桜の花のような淡い桃色の。
小さな小さな、想い。
心のすみに住みついた、紺碧色の瞳。
あがいて、焦って、必死に追いかけて。
届かない想いに、どんどん歪んでいく、俺の心。
強さへの憧れはいつしか渇望へ変わっていく。
慈雨のように降り注いでいた想いが、雹のように身を打ちはじめて、
ついに溶け出す、小さなカプセル。
広がる中身は、嫉妬。
それが現すは、憎悪。
…そして黒く黒く塗りつぶされた心。
漆黒の空間に残ったのは、細い月。
それが強さだと、俺の中のもう1人の俺がしたり顔で頷いて。
ああ ごめんなさい。
ごめんなさい、俺がバカでした。
俺、ビュティをぶちました。
決別なんかじゃない、あれは甘え。
ボーボボさんを殺す俺を赦してもらうために、
そしてボーボボさんに俺を殺してもらうために。
薬に頼って、
ボーボボさんに頼って、
ビュティに甘えて。
何もかも、何もかも他人のせいにして、
俺自身は何も手を汚さずに。
やっと、わかった。
最初から何もいらなかったんだ。
めくるめく映像。
次々と開いていく緞帳。
走って戻って、笑って泣いて。
めまぐるしく展開されるスクリーンの奥に、
こっちを見つめる紺碧色の瞳。
再び最初から始まる映像。
3
2
1
淡い桜が微笑んで
俺の頬を打つ、小さな手のひらがパチン。
いつの間に意識を失っていたのか。
ヘッポコ丸は、瞼を刺す刺激に薄く目を開けた。
一筋の光。
夜が明けようとしている。
白く霞む視界の端に、昼の空の三日月のように
頼りなく霞む、小さな情けない、幼い自分がいる。
----幻?
そいつは泣きじゃくっていて、どうしようもなく脆そうだった。
ずっと、ずっと自分の後ろにいたんだろう。
ずっと、ずっと泣き続けて待っていたんだろう。
ヘッポコ丸は薄く微笑んで、つぶやいた。
今日からお前を、抱えていくから。
一緒に、行こうな。
穏やかに、ヘッポコ丸の意識は遠のいていく。
次に目が覚めたら、行かなくちゃ。
強くなるために、必要なもの。
強くあるために、背負うもの。
今度こそ、求めるものを違えたりはしないから。
下弦の月は光に呑まれ、光に溶けて光そのものになっていく。
-------------了。